「こちらで対応する患者さんではないはずです。
もう一度、しっかりご家族に話してください!」
救命救急センターの医師が、電話を叩きつけるように切った。
抑えきれないほどに、医師の気持ちが高ぶっていたのには、理由があった。
搬送依頼があったのは、これまで何度も運ばれてきた、在宅の末期がん患者。 その患者本人は、延命治療の拒否を書面で示していた。
医療現場では、これをDNAR(do not attempt resuscitation)、もしくはDNR(do not resuscitation)と呼ばれている。
しかし、DNARでありながら、患者の容態が変化するたびに、家族が救急搬送を依頼。 救命救急センターの現場では疑問を抱きながら、対応していたというのだ。
しばらくして、救急隊員から再び電話があった。
どうしても家族が蘇生措置をしてほしいと言う。
医師は、脱力した声で搬送を承諾した。
やせ細った末期がん患者は、救急隊員に心臓マッサージを受けながら運ばれてきた。 搬送中に心停止したらしい。
心臓マッサージで上下に揺れる体は、今にも折れそうだ。
その様子を、家族はすぐ後ろについて見守っている。
蘇生措置の体制がとられ、医師が除細動器(いわゆる電気ショック)を手にした。
スタッフが、一歩後ろに下がる。 その瞬間、患者の体が少しだけ、跳ねた─
別室に待機してた家族が呼び込まれて、患者の死亡が告げられた。
若い医師の目は、真っ赤だった。
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時期と場所はここで明かせないが、これはある地方の救命救急センターを取材していた時に遭遇した場面だ。
この時、搬送されてきた患者の姿、対応に苦悩する若い医師の表情が、今も鮮烈に蘇ってくる。
がん終末期に限らず、臓器移植や、重度障害者の問題を取材する中で、患者(当事者)と家族の関係性は、大きなテーマになってきた。
9/18にOAされた、NHKのドキュメンタリー番組「ありのままの最期」に関して、先日、私は感想と問題点を指摘を投稿したが、これについて誤解された反応があったので、補足しておきたい。
この番組は、医師で僧侶の田中雅博先生が、すい臓がんで亡くなるまでの450日を追ったものだ。
田中先生は、DNR(延命治療の拒否)とセデーション(終末期鎮静)を明確に希望してたが、同じく医師で僧侶の妻は、その意向を実現できなかった。
この番組を見て、長年の伴侶を失いたくないという人間らしい情であり、人間は一人では生きていけない存在だ、という見解を示す人もいた。
田中先生の妻が、個人攻撃の対象になるのは私の本意ではない。
だが、長年の伴侶を失いたくないという「衝迫」によって、田中先生が示していたDNRや、置き所のない痛みの苦しみは置き去りにされたのは事実であり、問題だった。
私が、狂気であり、家族のエゴ、だと指摘したのは、田中先生の妻が「医師でありながら」、鎮静措置を途中で中断して覚醒させ、リハビリをした行為である。
延命された時間は、妻にとって心の整理をつけるのに必要だったのかもしれないが、田中先生にとっては、約束が反故にされた無間地獄の苦しみであり、尊厳を損なう行為だった。
患者本人に苦痛を与える行為は、家族という関係性は免罪符にならない。
誤解して欲しくないのは、一般のがん患者の家族が、治癒の可能性を探って代替療法などを試してしまう行為や、必死になるメンタリティーは、決して「狂気」でも「家族のエゴ」でもない。
それは、患者の「治したい」という願いに、家族が寄り添った結果であり、自己の意思が無視された田中先生の終末期とは、本質的に全く異なる。
「1分1秒でも長く生きてほしい」という願いは、家族として当然の感情だと思う。
同時に「1分1秒の延命された時間が、患者の苦痛を長引かせる」、という現実を、看取りの現場に立つ医療者は見てきたはずだ。
田中夫妻が運営してきた、普門診療所の方針は次のよう掲げられている。
「病気を科学的に診断し、治療法を十分に説明した上で本人の自己決定を尊重した医療を行っております」
患者の苦しみを最優先に考えて、決断を下すのは、それだけ家族に、精神的な負担が大きいのも現実だ。
週刊ポストでご紹介した、緩和ケアで生き抜いた3人の男性の家族たちは、自己の複雑な想いを必死に抑えていた。
3人の妻たちだって、1分1秒でも長く生きてほしいことに変わりはない。
だが、それを口にしなかった。
患者本人が辛くなると、緩和ケア医の萬田緑平医師から伝えられていたからだ。
群馬県高崎市の緩和ケア診療所「いっぽ」では、看取りの後に家族を訪ねて話を聞き、共に振り返るグリーフケアを行なっている。
こうした対応は、診療報酬に加えられていないこともあり、それほど普及していない。
NHKの取材者は、「理想的な死」を田中雅博先生に見出そうとしていたようだが、患者の自己決定権が、いとも簡単に損なわれてしまう状況が起きた。
この想定外の場面をありのまま伝えたこと自体は、NHKの英断だったと思う。
この番組を巡る反応をみると、「家族であれば患者の自己決定権を損なうのは仕方がない」、という考え方が根強いことを思い知らされた。
この議論に、亡くなった患者は永遠に参加できない。 だからこそ、私は患者の自己決定権にこだわり続ける。